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ボエモン1世(Bohemund I, 1058年頃 - 1111年3月3日サン・マルコ・アルジェンターノ)は、第1回十字軍の指導者の一人で、後にアンティオキア公。ノルマン人のプッリャ・カラブリア公ロベルト・イル・グイスカルドと彼の最初の妻アルベラーダの長男。 本名は「マルコ」であるが、彼の背がとても高かったのを父のロベルトが伝説上の巨人の名になぞらえて「ボエモン」と呼ばれた。 当初、父の東ローマ帝国遠征に従い、ギリシアで戦う。1085年の父の死後、異母弟のルッジェーロ・ボルサがプッリャ公を継いだため、ターラント公になる。南イタリアのノルマン騎士たちを集め、甥のタンクレードを連れて1096年の第1回十字軍に参加し、ゴドフロワ・ド・ブイヨン、レーモン・ド・サン=ジルとともに事実上の指導者の一人になる。アンティオキア攻囲戦における指導など、第1回十字軍の成功は彼の手腕に帰すと考えられるものも多いが、エルサレム攻囲戦には加わらず、アンティオキア公になる。ボエモンはアンティオキア公国をエルサレム王国以上の大国にするつもりだったが、1100年にアナトリアのイスラム地方政権ダニシュメンド朝に敗れ、1103年まで捕虜となった。また1104年にはハッラーンの戦いでもムスリムに敗れた。その間に、東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスの支援を得て、トゥールーズ伯レーモンがトリポリにトリポリ伯領を創設し、アンティオキア公国の拡大を防いだ。その後、兵力を募るために一旦ヨーロッパに戻り、1105年にフランス王女コンスタンス(フィリップ1世の長女)と結婚し、東ローマ帝国と争ったが結局敗れて、その宗主権を認め、1111年に失意のうちに死んだ。摂政を務めていたタンクレードがアンティオキア公位を継いだものの彼も程なく亡くなり、続いてボエモン1世の息子のボエモン2世が後を継いだ。 東ローマ帝国のアレクシオス1世コムネノスの皇女アンナ・コムネナは彼女の著書『アレクシオス1世伝』の中で、十字軍を「野蛮人が大挙してやってきた」と記しているが、ボエモンには何か魅かれるものがあったらしく、以下のようにボエモンについては詳細な記録を残している。 「背が高く、広い肩幅、引き締まった身体。金髪、肌は白く、少し赤味を帯びた顔、碧眼で、その瞳には高貴さと威厳がある。すべすべと顔をそり、頭髪は耳のあたりで短く刈っている。この男には恐怖感を感じさせる一方で、何とも言えない魅力があり、機知に富み、よく事情に通じ、断固とした言葉を交わす。」「この男に優る資質の持ち主と言えば、私の父である皇帝だけであろう」。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボエモン1世 (アンティオキア公)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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